GEN日記

ひきこもり×ほぼ無職×フォーカシング

「ひきこもり」経験の社会学 関水徹平 〜自分自身を生きる〜

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今年のはじめから読み進めていた「ひきこもり」経験の社会学をやっと読み終えた。

 知人からの評判の良い本ということもあり、いつか読まなければならないと思っていた。しかし大作の匂いがしたので、読むのに思い切りが必要だったので、なんとなく読まないでいた。だが。思い切って読んでみて非常に面白かった。

ひきこもり経験者の語りはもちろん、「ひきこもり」という概念の変遷、ひきこもりとアイデンティティ、著者の必要だと考えるひきこもり支援等について書かれており、自分が大学院で論文を執筆していた頃のことを懐かしく思い出しながら読んでいた。同時に、ひきこもりをテーマに論文を書くとなると、臨床心理学、社会学等の立ち位置がどうであれ、ある種同じ様な型に至るのだと思った。

各章毎でテーマは移るが、一貫して多数派の有り様や生き方に囚われずに、自分の有り様や生き方を求めることの大切さを訴えてるように思えた。それは「何歳までには高校を卒業して、大学に入り、それを卒業したら新卒で会社に入り、その後何歳までに結婚して家買ってうんたらかんたら…」ということをひとまず置いておき、自分は本当はどうしたいのか?どうありたいのか?を理解して、一歩ずつ歩んでいくことの大切さを訴えているように思えてならなかった。

多数派の人達とか、普通の人達という言葉が出てくると「多数派の人達とは何か?」「そもそも普通とは一体何なのだろう?」みたいな疑問が出てくる。それここではいったんそれは置いておく。著者の訴えには非常に共感する。それと同時にこの訴えの難しさも感じる。その難しさとは「自分がどうしたいのか?」を本人にもよくわからないということである。

 これはひきこもりに限らずそこそこあると思う。そのような時に「自分がどうしたいのか?」という問いを自他問わず突き付けることになっても「どうって?どうしたいんだろう?」と結局よくわからないまま、逆に結論を出すことに焦り、焦燥感を募らせ、本来自分の求めていたこととは外れたことを暫定的な答えとして出してしまう場合があると思う。

ひきこもりに限らず、その時々に何を感じ、自分がどうしたいのかということに、どれだけ丁寧に向き合っているのだろうか。普段なんとなく過ごして、なんとなく生きているのかもしれない。だから、チコちゃんに「ボッーと生きてんじゃねえよ」と叱られてしまい、それが流行ってしまうのだと思う。逆に言えば、自分が何を感じ、どうしたいのかと丁寧に向き合うことは非常に労力のいることなのかもしれない。多数派の有り様や生き方に囚われずに自分のあり方や生き方をクリエイトすることは、創造的で面白く刺激的である反面、すごくエネルギーがいり疲れることの様に思える。だから、思考停止で疲れない、レールに従って生きる生き方を選んでいる人が多いような気がする。どちらがしっくりくるかはその人その人なんだろうと思う。個人的には、レールに従って生きるのはやはり向いていないと最近痛感している。